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露土戦争(ろとせんそう、1806年 - 1812年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ(他の露土戦争については、「露土戦争」を参照〔オスマン帝国とロシアの間の戦争はしばしば起こっているが、狭義の「露土戦争」は1877年から1878年にかけての戦争のことをいう場合がある。『世界史を読む事典』(1994)p.117〕)。日本では、この戦争をあらわすのに「第三次露土戦争」の用語もよく用いられる〔世界「戦史」総覧(1998)p.249〕。 == 経緯と背景 == 1804年、バルカン半島において、「カラジョルジェ(黒いジョルジェ)」の異名をもつジョルジェ・ペトロヴィチが1804年よりオスマン帝国への反乱(セルビア蜂起)を指導しており、かれらセルビア人たちはロシアからの支援を当てにしていた〔永田(1988)pp.407-408〕。また、ボスニアやブルガリアでも反乱が起こったが、これらの鎮圧をめぐってロシアが介入した〔永田(2002)pp.156-157〕 。1806年、オスマン帝国は支配下のワラキアとモルダヴィアにおいて、親ロシア派の総督を罷免し、また、キュチュク・カイナルジ条約の規定を破ってボスポラス海峡およびダーダネルス海峡のロシア商船の自由通航権を停止した〔。これに対し、ロシア軍はワラキアとモルダヴィアを占領してこれに対抗し、両国は戦争状態に入った〔。 これに先だってロシアは第三次対仏大同盟の一員としてナポレオン戦争を戦っていた。同盟国は、 グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス)、 オーストリア帝国(神聖ローマ帝国)、ナポリ王国、スウェーデン王国、ポルトガル王国であった〔チャノン&ハドソン(1999)p.56〕。ロシアのツァーリ(皇帝)、アレクサンドル1世は、ロシアが1805年12月のアウステルリッツの戦いと1807年6月のフリートラントの戦いで大損害を出したことから、この戦争への深入りを回避しようとしてナポレオン1世と秘密裏に接触し、1807年7月、ティルジットの和約を結んで同盟を離脱し、ほかの敵と交戦できるようになった。フランス帝国との協調関係を築いたロシア帝国は、この時期、1805年にペルシャのガージャール朝に対して宣戦布告し、1807年にはイギリスとの間で英露戦争、さらに1808年から1809年にかけてはスウェーデンとの間に第二次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争)を戦った〔。 一方のオスマン帝国は、ナポレオンが地中海政策の一環として1798年に敢行したエジプト・シリア戦役により反フランス陣営に加わっていた。これがロシア帝国も参加した第二次対仏大同盟であった。フランスのシリア侵攻は失敗し、1801年にはエジプトからも撤退を余儀なくされた〔。オスマン帝国は、第三次対仏大同盟には加わっていなかったが、ナポレオン撤退後に属領エジプトでムハンマド・アリーが勃興し、1805年には帝国から自立する形勢を示すなど深刻な事態に陥っていた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「露土戦争 (1806年-1812年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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